最近テレビがすっかり変わってしまった、という印象を多くの人が持っていると思う。事実、家電量販店の店頭は、どこもずらりとテレビを並べているが、目に入るのは横長の大画面に映る鮮やかな映像ばかりで、テレビそのものの存在はほとんど意識されない。
そもそも、30インチ、40インチというような大画面のテレビが壁に吊られていたり、華奢なガラスの台に乗っていたりして、折り重なるように展示されている光景は2〜3年前には見られなかったものだ。液晶とプラズマによる画面表示方式の急速な普及によってテレビの姿がすっかり変わるとともに、電気店の店頭から居間にいたる風景ばかりでなく、グッドデザイン賞の審査内容までもが一変してしまった。
今年度グッドデザイン賞に国内外13社から応募されたテレビはモニターも入れると、そのすべてが薄型画面で、液晶が21点、プラズマが10点の合計31点。そのうち21点が受賞したが、問題はその当落を分けたものが何であったかということだ。
現在、各社でテレビのデザインを担当するデザイナーはさぞ苦労しているだろうと思う。何しろ画面が大きくなって本体が薄くなればなるほど、テレビのキャビネットのデザインに対する要求は、その存在感を消し去る方向に向かうのが必然であるから、いわば見えないデザインに向けて知恵を絞らなければならないことになる。
かつて、いかにして彫りの深い立体感のある顔つきを作るか、巨大なブラウン管を覆う箱のボリュームをどう扱うか、木やアルミやプラスチックなど多彩な素材をどう選択するか、高性能のスピーカーをいかに目立たせるか、スイッチや選局つまみのレイアウトはどうするかなど、テレビのデザインにはいくらでも課題があった。それが今や、かろうじて残された課題は、どうやって小さなスピーカーを残された細い枠の中に隠すか、と巨大な平面を立たせるための脚をいかにさりげなく処理するか、というくらいである。
もちろん、カタチのプロであるデザイナーは、例え1mmでも扱うべき対象が残っているかぎり、そこに彼らの能力のすべてをつぎ込んでくるもので、審査員もそこを見逃すことはない。しかし、そうした細部の造形処理の巧拙は別として、生活の場で求められるデザインのゴールとしての「存在のなさ」と、ブランドを主張したい立場からの「存在感」とのせめぎあいのなかで、どこかで線を引かなければならない。
周りがどうであれ独自の主張をぶつけてくる(株)ナナオの「EIZO FORIS・TV」のような例を別にすれば、結局、時代の急激な流れのなかにあって、ある種の割り切りと潔さをどれほど保てたかが当落の分かれ目になったように思う。しかし、その差はわずかであり、全てのデザインが受賞していても不思議ではないほどに均質であった。
さて、テレビ以外の話題といえば、やはり、ほとんど同じ顔をしたDVDプレーヤー・レコーダーが20点以上並んでわれわれを苦しめたことと、おもちゃのようなデジタル・オーディオ・プレーヤーの山が突如として出現し、そのほとんどすべてが海外のブランドであったことぐらいだろうか。オーディオカセットテープはとっくに姿を消し、今またCDやMDなどすべてのオーディオメディアがHDDかメモリーチップに取って代わられようとしている。HDDプレーヤーはiPod
miniに極まるとして、メモリー・オーディオ・プレーヤーはあらゆるメディアの呪縛から解き放たれ、メカも持たない不思議なエイリアンといった存在で、その天真爛漫なデザインは見る人の笑いを誘う。その中で唯一といってよい日本のブランドのデザインが抜きん出てユニークであったことは、日本のデザインの今後を占う上で注目に値する出来事であった。 |