Good Design Award 2003 Winners
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GDP グッドデザインプレゼンテーション2003
審査委員/審査講評

2003年度グッドデザイン賞 審査総評「祝祭のあとに ------論証としての何がグッドデザインか」

2001年・2002年・2003年度 グッドデザイン賞審査委員長

川崎和男

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1. 民営化という制度論の検証

グッドデザイン制度が民営化されて6年、47回目のグッドデザイン賞審査が終了した。すでに47年にわたるデザインの選定制度である。
次期3年目に本制度は50周年を迎える。50周年目を「儀式」と考えた場合、その前期、この3年間を「祝祭」の時期、儀式前夜である準備期間として、さらに、褒賞制度である「制度論のための基準整理」を意識した。
果たして、Gマーク賞は、国の制度から民営化された制度の意義を確認することができたのであろうか。
そして、「グッドデザイン選定」という褒賞制度が、わが国において、どのようなデザイン振興とデザイン普及による、「豊かな国民生活の文化向上と産業支援」を成し遂げているのか、その確証を見つめたい。今後も、さらに制度である意義を果たしていくのであろうか、その確約を提示したい。
21世紀に入ってからの3年間という「祝祭期間」の審査委員長として、ここに、本年度の審査状況と、制度としての選定審査の基準整理の論理について報告を論文として残したい。

私は、民営化最初の審査委員長・中西元男氏の「グッドデザインはグッドビジネス」を、テーゼとして再度自問しながら、デザインディレクターとして、大学人として、教育者として、新たな審査手法を選んだ。
それは、デザインとビジネスの関係性を基本としながら、よりデザインの社会的な効用と効果をこの制度で拡大し、デザイン対象の価値観に対して、審査基準の根本的かつ詳細な再検討と再検証を行った。その審査基準を「私のことば・委員長としてのことば」で提示し直すことだった。
すでに、バブル経済後の日本の経済的状況から日常的な社会状況に対して、Gマークに注目を集中させること。それは新たな社会革新を創出する「手法としてのデザイン」をもっと一般化することがねらいであった。
その前提として、審査基準、その論理背景を追加し、深度ある詳細な説明責任を果たすことであると考えた。つまり、デザインは社会と時代に、デザイン対象を通して何をもたらそうとしているのか、この大局的な論理を再確認することにつながると期待した。そして、審査委員の世代交代をはかっていくこと、以上の3つを意図した。

この3年間の審査方針を記す。
応募者は、少なからず、「応募する限りはGマークであるという認証を希求」している。応募者側にはそれぞれのグッドデザインたる所以を保持している。
したがって、その審査にあたっての態度は、「プロとしての視点」と「ユーザーとしての視点」、この2つの視点によって、審査委員の視線(まなざし)がある。このまなざしが意味するのは、単なる生活者という安易な視座としての判断ではない。ユーザーとしてモノとの関係性をより明快に結ぼうという態度には、いわゆるデザインによるユーザビリティが確約されているかどうかという批評態度が生まれると考えることができる。審査委員はデザインのプロであると同時に、ユーザーでもある。この複眼的な検証を全審査委員に要望したわけである。特に、世代交代によって、あらためてGマークの存在意義を自問自答に追い込まれた新人審査委員にとっては、プロとして、さらには選別された委員資格が問われる問題になったものと考えている。

2. 3つの審査基準への加点減点形式の設定

この制度の選定審査基準は3つある。
■1.「良いデザインであるか」
■2.「優れたデザインであるか」
■3.「未来を拓くデザインであるか」
である。
この審査基準において、1.「良いデザインであるか」というのが、本制度の基準を「決定的」にしている。
しかし、まさしく「良い=Good」というのは、次の5つをさらに詳細な解釈によって分けた10項目を基本要素にして検証されることになっている。
「美学性・独創性・誠実性・機能性・価値性」である。
そして、最も審査にあたって説明責務として困難であるのは、「美学性」と「価値性」である。この2つは、審査委員の主観的な判断に頼らざるをえないことになる。この主観性は、審査委員会という集団的な判断になっても、今度は、委員会集団の主観性とみなされ、これまで制度是非論での誤解を生じる原因とされてきた。
結局、グッドデザインとは何か、という「解」は、この基本的な10項目要素との対照性の説明責任に集約されると考えるべきだろう。
よって、私の判断は、この基本的な審査基準は、
●「主観性を客観性にすること」と、
●「減点的な評価を、最終的かつ決定的な客観性の明示にすること」を審査委員会表明とした。
次の、2.「優れたデザイン」、3.「未来を拓くデザイン」というのは、デザイン・生活・産業・社会という切り口で鮮明な審査項目が設定されている。これらは、応募されたものを何らかの方法で比較検討すれば、自ずと客観的なデザイン解になる。よって、加点的な評価が容易である。
どこがどのように優れているのか、未来がどれだけ見えてくるのかという印象度であっても、褒賞という制度にとっては、肯定的かつ柔軟な受け入れが可能であるということが言える。
したがって、一次審査はウェブサイトによる電子文書審査が、個々の審査委員に任される。これは総じて、主観的であると認識し、その結果をそれぞれのチーム毎の再確認によって、客観的な一次審査評価となっていく。しかし、さらに、不確かである応募に対しては、部門での再評価によって、「一次審査の客観性を確立させておく」こととした。一次審査は、少なからず、加点法的な審査評価である。よって、この評価で不合格という応募は、デザインに対する根本的な問題児的なものという客観的な断定結果である。
二次審査は、現物審査であり、さらにチームの議論によって、客観的な判断評価となる。そのような審査経緯を常に周到させてきた。二次審査、その再確認は部門長審査、さらには、タスクフォースというベテランの審査委員チームが見直し評価を行う。
この慎重さを重ねていく上で、私は、「問題解決としてのデザイン」と「機能性の吟味という論理」によって、審査基準の深化を「制度の説明責任」とする情報開示を目指した。
よって、この3年間にわたる審査は、制度として、今後も存続・進展しうる3つの意味を確立したと考えている。

3. 意味その1・デザインという「答」について

デザインとは何か?、そして、グッドデザインとは何か?、この問いかけが、この制度への最大の質疑である。この疑問が制度である意味と意義へ連鎖している。
私は、むしろ、この疑問、そして意味や意義への質疑については、「Gマーク賞という制度によって選定されたデザインこそが、デザインであり、グッドデザインである」というテーゼからの見方を提案してきた。
端的には、「何がデザインであるのか」、「何がグッドデザインであるのか」という認識を成立させる制度である、という思考形式の普遍化を図る手法を採用したわけである。
それは、以下の3つの「答」になるという論理を審査基準の「解釈方法」として提示した。
 ●1. 課題に対する回答=Question & Answer
 ●2. 問題に対する解答=Problem & Solution
 ●3. 議題に対する応答=Topics & Reply
という審査思考のための提案と提示である。
すなわち、デザインが、問題解決をどのように成し遂げているか、その解決としての「答」が、回答なのか、解答なのか、応答なのか、という3つの視座を思考形式=審査評価として配置することだと断言した。
この3つの視座から、明確に見えてくるのは、応募されたデザイン解が、何を、課題・問題・議題にしてきたのか、という遡及が可能であるということだ。
たとえば、市場要求を議題とした解は、応答であり、この応答だけでは、本来の問題解決であるべき解答が見えない場合は、客観的に「良いデザイン」とはなりきれない、ということになる。
また、確かに問題設定とその解答にはなっているが、この解答から、未来が見えない場合には、Gマーク賞にはなりえない、ということも客観的に判断可能である。
「答」であるデザインとしての解決、解決としてのデザインから、あらためて応募されたデザインの意味が浮かび上がってくるということだ。
グッドデザインという解は、確実な回答・解答・応答から、再度、何を課題・問題・議題にしているのか、ということの吟味が可能であるということになる。
これがグッドデザイン賞である、という認証は、「答」がどれだけ、課題設定=課題化、問題設定=問題化、議題設定=議題化しているか、そうしたことから、デザイン手法を審査基準と対照化を図っているかを検証するという制度であるということが明示できたと考えている。

4. 意味その2・「答」の質による「かたち」論理

これまで、デザインは常に、「デザインと機能性」について語られてきた。
機能的なデザインであること、デザインは機能性の追求にほかならない、という極めて典型的な意識論は、生活者、ユーザー、そして、プロのデザイナーにとっても、金科玉条の「言い回し」であった。
すなわち、グッドデザインの基本は、まず、「機能性」の質が問われている。この常套的な「言い回し」すなわち、デザイン解=機能性という回答を、課題からさらに問題意識や議題意識に拡大させるという思考回路の改善化と高度化を図った。
それは、課題「化」・問題「化」・議題「化」という、「化」に対する「質」の提示である。
 ● 性能性
 ● 効能性
 ● 機能性
という「化」に対する「答の質」を、あらためて審査基準とつきあわせていく、という考え方である。
「性能性」とは、技術的な解決によって、応募されたデザイン解が、性能をどこまでデザイン表現として性能表示しているか、という審査対象になりうる。これは、性能を表示する数値的・単位的・性質的な能力性とデザインによる造形関係である。
「効能性」とは、元来は、薬物の効果についてのみ、その成果能力が表示できることがらであった。これは、薬物を使用することで、どこまで社会参画が可能であるかということを意味していた。たとえば、風邪薬はその効用によって、風邪が治り、ベッドから出て会社に出勤できるという社会参加の可能性を確約している。「効能」とは、社会との関係で考えられる効用と効果を示している。したがって、デザインの効用と効果が、社会との関係性、存在性という質を設定する能力と考えることができる。
そこで、あらためて「機能性」の定義は、「性能性」と「効能性」の統合的かつ統一的な働き能力であるということになる。まず、性質的な能力が社会性との関係において、そのデザインが果たすであろうモノ、あるいはかたちの性能が、どれだけ時代や社会という環境の中で、ユーザーへの使用観と所有観に連結しているかという定義に至る。
こうした「機能性」の再定義は、「化=か」に対する「質=たち」のデザイン解=答である。「化・質=か・たち」論を打ち立てることになるわけだ。
デザインは、必ず、「かたち」、見える形あるいは見えない形を造形する営為である。
この営為による「かたち」論は、機能性をもう一度、性能性と効用性によって取り囲みながら再定義し直すことで、性能・効能・機能への造形化がデザインである、という論理構造を審査基準の精度を確証するのではないかと考えた。
デザインされたかたち、かたちとなっているデザインを、制度によって審査するということの意味性は、デザインの本質論として展開されてきた「機能性」だけで評価しているわけではない。これが、この3年間にわたっての審査基準における精度確認の作業成果であったと考える。

5. 意味その3・三年間の社会情勢とグランプリ受賞から見えること

21世紀は、New YorkのWorld Trade Centerへのテロ攻撃から始まった。民族対決、宗教対立、これらはかっての東西イデオロギー対立以上の世界的不安を引き込んだ。
当然ながら、わが国の政治状況と経済状況は、この不安の中に埋没していくことになる。また、わが国での同胞の拉致事件、そうした世界状況と呼応するように、少年犯罪の増加と低年齢化は、景気をことさら低迷混乱させていくことになった。
デザインは、政治と宗教から無縁でありうるのか、といういらだちは、私一人の葛藤であっただろうか。
2001年度グランプリは、「仙台メディアテーク」という建築・環境デザインであった。
2002年度グランプリは、「モエレ沼公園」という環境デザイン。
いずれも、地方行政のデザイン政策の具現化であった。これらは、地方がより豊かな環境という課題化への回答であり、市民生活と環境問題の解答が、見事に、その環境、建築、彫刻という構築物である「か・たち」の性能と効能と機能を、市民議題の応答として「象徴」したものとしてグランプリに決定した。
この2つのグランプリによって、地方の蓄積されてきたデザイン理念への情熱が、日本を変革させる、未来を拓いていく、優れて美しいデザインが「グッドデザインである」ということになった。
が、もう一方では、貿易立国・ものづくり国家としての力量の低下が起こっていることも印象づけられてしまった。
しかし、2003年度グランプリは、ハイブリッドカーである乗用車「プリウス」、製品デザインになった。
ようやく石油文明の終焉を、製品デザインによって告知するシンボルとして、わが国のものづくりが果たした。
いうなれば、21世紀に入って、さらに深刻になっているのは、石油資本=オイルマネー支配構造と、国際政治経済関係から発生している民族・宗教対立である。
わが国のハイブリッドカーという製品デザインによって、石油文明から解放されるのではないかという希望は、明らかに、デザインは政治と宗教に対しても遠景的にも接近していく性能性・効能性・機能性という問題解決、その可能性をわが国のデザインから発信できるということを確約している。
無論、少なからず、こうしたグランプリ受賞という象徴だけではない。デザインは、日常的な生活環境の傍らのモノ、あるいは、まだ大学の研究室成果であるような新領域のモデルであっても、Gマーク受賞デザインは、新しい世界観を変革していくと確信することができるわけである。

6. 基準審査と水準審査への批判に対して

民営化以前は、「グッドデザイン選定商品」という「認可」としてのGマークであった。ところが、Gマークに選定されれば、それは、「Gマーク受賞」というパロール=会話が敷衍していた。この事実を見過ごしてきた。
そこで、民営化によって、「グッドデザイン賞としてのGマーク」という「認証」に変えた。ところが、デザイン賞が1,000点にもなる褒賞が制度であるのはおかしいという批判に包囲されることもしばしばであった。
また、応募は自由裁量であり、応募するための対価が求められる。そして、デザイン賞を受賞しなければ、その対価は投資失敗ということになる。いうなれば、これが、制度論の一方である罰則論につながっていると考えるべきだろう。
制度とは、わが国では荻生徂徠による「政談」から罰則規範である歴史的な文脈が伝統になっている。しかし、もう一方での制度は、褒賞という裁可形式という面がある。
民営化にあたって、私が、「制度としてのサンクション」としたのは、罰則と褒賞の両面を兼ね備えることであった。
つまり、応募対価が、万一、不合格である場合には返却されない。その対価は審査要請費であり、罰則を受けたということである。
裁可制度であるからには、グッドデザイン賞という認証は、ベンチマーク=水準的な指標になりうるということを意図している。
それは、グッドデザイン賞というのは、性能表現、効能表現もデザイン解として果たしているかを裁可されるわけである。この裁可は、世の中に存在させられるか、という価値観を決定しているということと同根である。
この価値観とは、「望ましさ」と「好ましさ」と言い換えればいい。
デザイン、その本質は、望ましく好ましい造形による問題解決であるということができる。
そこで、この「望ましさ」と「好ましさ」は、時代的な影響によって変動することは免れられない。この変動とは、審査基準が揺れ動いていることと連関している。この連関は、水準審査になりうるということである。水準とは、基準の変動閾値である。この閾値はその時の審査委員の全体的な客観主義を積極的に活用しているということを明記しておきたい。
その理由に連続していくのが、「Gマーク受賞商品は売れない」という、非難を長年にわたって受けてきたことと関係している。
この非難は、審査基準の閾値という水準審査に対するものであるということをあらためて明確にしておきたい。
私は、この水準審査と基準審査が、受賞者側で、または応募サイドでは二つの誤解があるものと解釈している。この解釈論の説明をしておきたい。

7. 「売れないGマーク」、2つの誤解

私は、デザインが欲望の刺激装置であった時代は、すでに終わってしまっていると思う。欲望の刺激装置とは、「欲しい」と思わせる望ましさと好ましさを外観的に纏わせる、いわば加飾としてのデザインのことである。
この刺激装置には2つの構造が仕組まれていた。
 ●1つは、デザインを「付加価値」とみなす認識論。
 ●もう1つは、デザインによる「差別化」という手法論である。
2つの誤解とは、以上の、「付加価値」認識論と「差別化」手法論に帰結する。
「デザインは決して付加価値ではない。」全体価値を創出し制御するのがデザインである。これは、定本としてのマルクス「資本論・第二章」に立ち返って再確認を望みたい。付加価値とは、すでに時代遅れの経済的な価値づくりに限定されているものにすぎない。また、かたち表現による「差別化」は、デザインされたかたちの価値を受け止める人間集団そのものを差別化していくことにつながっている。
昨今、盛んにアジテートされている「ブランド構築戦略」とか「ブランディング」という奇妙な言語があるが、ブランディングの翻訳は“牛に焼きごてで目印をつけること”である。これはブランドの所有者を差別することにほかならない。その反極で、「万人のためのデザインというユニバーサルデザイン」は、差別化の裏返しであるのだろうか。否である。
47年という月日を重ねて、いまだに、社会風潮の中のデザインには、「付加価値論とブランド構築のデザイン」という、まるで国家戦略を提示する幼稚な提案がまかり通っている。これこそ、大きなデザインへの誤りであると断言しておく。こうした提案が、国家戦略になることと民営化された制度は一線を画すべきだ。
デザインによる産業活性化の二大テーマが、「付加価値としてデザイン」すれば「売れる」という幻想を生み出している。そうして、ブランドという歴然たるイメージ定着は、「差別化に荷担したデザイン」によって、これも「売れる」はずであるという妄想を誘因している。
「Gマーク」は、認証にすぎない。
この認証は、「売る」ことであり、「売る」ための勇気づくりと確信性という元気づけの強化である。
「Gマーク」であるから「売る」という姿勢がデザインの「本質に直結している全体価値」を、制度が認めているという、民営化された証に他ならない。「Gマークは売れない」というのは、デザインの本質まで、そのセンスが及ばない見識と良識の低さを露呈しているにすぎない。
もう一度、デザインを担当し、支援するためには、デザインセンスの再教育を、この過ち訂正から始めるべきであると提言しておく。

8. デザイン界のためのGマーク、その再確認

私は、委員長就任と同時に、マスコミの質問、「Gマーク賞は、誰のためのものか?」という質問に対して、「まず、デザイナー、デザイン界のためのものである」と、即答した。
その真意をもう一度、自記しておく。
デザイン界は、デザインの本質を明確に社会化していく職能集団であるからこそ、その社会的責務は、まず、自らの職能倫理として、誠意ある職能効果を発揮しなければならないということがある。その効果の判断指標がGマーク受賞である。Gマークによって、職能効果を一般に伝えるならば、それが制度ゆえに、公的なものである。その公的な認証こそ、職能集団=デザイン界のアイデンティティを指示できる。職能アイデンティティとは、社会的責務を公知化する手だてである。
よって、まず、Gマークがデザイナー、デザイン界のためのものであることから出発させることはなんら間違っていない。
私が、「プロの視点」と「ユーザーの視点」、この複眼性を審査委員に要請したのは、職能集団としてのアイデンティティに立ち返ることを求めただけのことである。
なんとしても、デザイナーがGマーク=これがグッドデザインである、という確証を抱かない限り、社会に存在させるべきではないという決意責任が職能倫理の根幹ではないだろうか。

9. 制度は、制度溶解の中でその役目を完成する

私は、やがて50周年を迎える準備期間の3年間、審査委員長として、審査基準の論理、その詳細整理・審査監察・審査委員評価までのリーダーシップを果たしてきた。これは、とりもなおさず、わが国の貿易立国としての産業経済状況から、国民生活におけるデザインによる文化進展までを、さらに、デザインに取り込み直す作業であったと考えている。
今、わが国は、きわめて国家状況と国際関係において、危機的な現状、疾病的な体質になっていることは否めない。
この認識を、制度である、何がグッドデザインであるのか、というのは、何が、わが国をグッドデザインされた国家にリードしていくのかということになるわけだ。
あらためて、グランドデザインとしての国づくりとデザインの関係は、この制度であるGマーク賞が唯一の、自国確認作業であると言っても過言ではない。
したがって、ことさらに、制度たるGマーク賞でのデザイン振興やデザイン政策が、永続していくことは、理想とは言えないはずである。
やがて、Gマーク賞の役割が終わったという時期を、国民全体、その前にデザイン界が宣言する日がくることを願っている。
つまり、「制度」である役割が終焉の時に、グランドデザインは完成すると考えるべきであろう。「制度は制度の中で融解して完成を迎える」ということを、審査報告の結語としたい。
私は、50周年目の「儀式」の時に、制度の存続性がもう一度再考されるべきだろうと推測してやまない。
「祝祭」の期間と仮定し、仮説化した審査基準の詳細な説明責任は、今後、デザイン学者として、その最大の課題・問題・議題である「何がグッドデザインであるかというデザイン美学」を、これから「儀式」までに、私論を提出し、制度の融解化を図りたいと考えている。
これが、Gマーク審査委員世代を修了した者の、社会的責務であると自覚している。

10. 最後に

私事ながら、私は、1987年以来、Gマーク審査委員を務めてきた。おおよそ、私のデザイナー職能の自分史の半生をGマーク選定と関わってきたことになる。
これは、審査を通して、再度、自分が「職能家であるデザイナーなのか」ということを自問自答できる毎年の大きな機会であった。これはおそらくすべての審査委員にとって、Gマーク審査は、自らのデザイン活動を自己点検し直せるチャンスであることを共有している。
はからずも、21世紀そして民営化二期目は審査委員長という大役を担った。
この大役の中では、審査委員の世代交代を主導した。よって、審査委員としてその資格を充分とするデザイナー仲間を、審査委員会から除名したということもできる。しかし、それはさらなるデザイン活動を期待するために、その役割を修了していただいたということである。私の意図は、後者である。
かつて、私は、“審査委員50歳定年説”を唱えたこともあった。その当時には、先輩ベテランデザイナー、いわば、大御所の方々に向かっての提唱であった。よって、自分が50歳を迎えた時には辞任を申し出た。しかし、審査委員の後継者不足は明らかだったために残留を余儀なくされた。そして、審査委員長になって、その所感は、まだまだ世代交代と絶叫的に唱えながらも、正直、新人審査委員にこの重大な選定制度を委任することには強い不安感があると告白しておきたい。
しかし、世代による職能意識は、社会的な役割を分担していくことが重要である。
とりわけ、デザイン界は、ものづくり、コミュニケーション、環境計画、情報インタラクション、新ビジネスモデル創出など、新しい「文化のかたち」が、世代のコラボレーションによって構築されていくと信じている。
私は、世代交代による活性化された審査委員会によって、新しいデザイン界が誘発、再生、進歩していくことを切に望んでいる。私には、今後、次世代のために、審査委員経験者としての役割が待っている。
これまで、審査委員として、さらには委員長として、支援し、協力後援をしていただいたデザイナー仲間、そして事務局である日本デザイン振興会、グッドデザイン賞審議委員会に対して、あらためて感謝する次第である。
デザインは、その本質において、全体価値創出のための唯一の手法であることを、本論文の最後のことばとして残しておきたい。
「祝祭」から「儀式」の中で、何がグッドデザインとなるのかが、また、問われていくことだろう。

Design A Dream
Good Design Creates The New World.

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