GDA2002 WINNERS 審査委員・審査講評 賞の構成 大賞 エコロジー賞 中小企業庁長官賞 ロングライフ賞
主催者あいさつ グッドデザイン賞 大賞選出過程 ユニバーサル賞 日商会頭賞 表彰式レポート
受賞結果速報 グッドデザインプレゼンテーション2002 金賞 インタラクション賞 審査委員特別賞 アンケート結果
審査講評
これからの制度としてのGマーク
2002年度グッドデザイン賞
審査委員長 川崎和男

略歴を見る

時代的なデザインの拡大化と一般化
わが国の現況は、新世紀という実感がないままに、政治、経済、国際関係、教育、医療、農業に至るまで社会的かつ時代的に、様々な問題が山積している。
昨年は審査期間中に、9・11のワールドトレードセンターへのテロ行為事件が起こり、今年は、9・17の北朝鮮拉致被害者の帰国に、全国民は最大の関心と問題意識を新たにせざるをえなかった。
こうした国際的な問題が頻発する中で、改めて、デザインが果たす社会的な意義を再確認し、全審査委員がデザインのあるべき本質価値は何かという共有意識をもって審査に望んだ。
デザインは、きわめて日常的な生活支援への理想主義を具現化した「かたち」である。この「かたち」を、モノの形態だけではなくて、社会や生活全般のシステム形式にまで拡大することによって、グッドデザイン賞はその選別を確認し、選定認証する審査であるということである。
とりわけ、産業界をはじめGマーク制度の対象領域においても、現代のあらゆる領域で起こっている問題が細密かつ大きく関与し、その影響は想像以上に大きな陰影を落としている。端的に現れたのは、新商品開発の品種も数量も経済環境下では激減している。デザインに対する投資やデザイン価値への信頼度が、企業の経営戦略の中で重視する企業と、軽視あるいは無視する企業もある、ということが明白になってきた。
すでに韓国や中国からの産業的な追い上げは激しく、その気合いとも感じられるデザイン造形の勢いを強く感じざるをえなかった。彼らは、「デザインを経営資源」として捉えるほど、経済支援のためのデザイン価値に力を注いでいると判断できる。
さて、こうした状況の中で、デザインが対象とする領域は、わが国では産業界にとどまらず、行政や社会基盤づくりから学際的研究に至るまで、さらに大きく拡大していることがより鮮明になってきた。
応募されてくる物事には、応募者なりの「デザインの定義」があることを再度検証しなければならないほど、デザインはその意味性と価値観を拡大化し、普遍化し、一般化してきたと考えることができる。

ものづくり国家としてのデザインによる企業創生
けれども、根本的な「ものづくり国家」として、産業関連に対するデザインは、応募されている商品全体を概観すれば、ものづくりそのものが混迷を深めているという深刻な危惧感は捨てきれなかった。
まず、家電や情報機器というハードウエアそのものの生産とデザインの関係を見ると、現状での日本の生産技術と市場との関係は破綻している。すでにわが国の産業は工業社会から情報社会を超えて、産業の歴史的な変貌や変革を再検分しなければならない時代に入っている。特に、家電産業は、発展途上国の産業形式であることは技術発展史的にも立証できることになってしまったと考える。もはや、わが国の産業構造では支えきれない技術表現であり、企業表現になっている。
それは、国内での内需性を見つめれば明らかである。100円ショップから高級ブランドという極端な二極化が顕著である。チェーン化された量販店や海外著名ブランドショップのCSM(カスタマーサービスマネージメント)は、インターネットなど情報化と流通の合体化は著しい。ものづくりとSCM(サプライチェーンマネージメント)までが一新してしまっている。こうした革新的な傾向に、これまでのわが国の生産と流通方式はすでに立ち遅れている。これは大企業ほど、身動きがとれないほど立ち後れている有様を応募から読み取ることができた。
携帯電話で「つながっている消費者」というコンセプトでの商品づくりから供給スタイルを創り上げている企業や、商品情報を見事に情報公開とアフターケアというサービスをもって高度化している企業形態のデザインこそ、情報時代から次世代産業を創出するだろうということを予感させ、再確認せざるをえなかった。
ものづくり国家として、貿易立国として、産業分野の選択と産業の新形式化を慎重に行う時代にわが国は立ち入っている。ものづくりとデザインの関係は、再生ではなく、創生しなければならない時期に入っていると考えるべきだ。新産業を創生するためには、デザインが一層不可欠になっているのである。

選定審査にあたって付加した評価事項
私は、今年度、審査委員全員に3つの論議、評価点を依頼した。
一つは、「応募された商品や成果に、デザイン、あるいはデザイナーの生き生きとした姿勢が宿っているかどうかを見極めてほしい」ということである。この論点には、時代的に、ものづくりの経済環境やデザイナーの意欲が押し殺されている現実が蔓延している、だからこそ、それを乗り越えるような元気のあるデザイン表現を見つけ出してほしかったからである。
次には、農作物や畜産物での様々な不祥事が連続している。それは、ものづくりそのものの原点が崩壊しているといえる。こうしたことをふまえると、「エコ○○製品」や、「マイナスイオン健康グッズ」的商品、ユニバーサルデザインを前面的に標榜している商品は、その詳細にわたって、専門的な検証に基づいて評価してほしいということである。これらの商品名や性能表現は、企業の時代に即した商品戦略であるとも捉えられるが、デザインの本質に照らすと、このデザインへの確信犯的な裏切りであるということも考えられるからである。こうした時代風潮を商品コンセプトにすることを全否定するわけではないが、グッドデザインという「認証制度」にとっては相当の問題があると考えたからである。
そして最後は、素材選別と廃棄システムがデザインコンセプトとして確約されているかどうかという点である。たとえば、ちょうどWHO(世界保健機関)から報告された環境ホルモンの問題についての報告書で、「懸念がある」という素材については、応募者への問い合わせと同時に公的機関での専門的な判断を参考とした。
以上の3点については、特に、プロダクトデザイン、インダストリアルデザインにおいて、エコロジー観やユニバーサルデザイン観という評価項目がさらに吟味される時代になっているのである。

バーチャル審査とプレゼンス審査
インターネットによる応募形式は、すっかり定着したと考えられる。しかし、応募者にとってはそれなりの負担があるようだ。この改善は進めていかなければならない。審査委員にとっても、一次審査は、各自がパソコン上で書類審査的な判断をサーバー側に返信する。その審査委員各人による判断をもとに、一堂に会した審査チームが議論を重ねることで、一次審査結果を判定する。さらに、その一次審査に対して、書類上では判別不能のものに関しては、部門長・ユニット長会議にて、一次審査のさらなる精査を諮る。
バーチャルな書類審査は、審査委員の主観性がある程度反映することがある。しかし、チーム全体の議論によって、それはプレゼンス審査になると同時に客観的な判断になってしまうことは明らかだ。
二次審査は、現物そのものであり、モノやシステムについては、現地やその使用環境にまで審査委員が出向き、レポートとして審査ユニットへの判定資料にしている。
現物を目の前にした審査チームでの議論は、客観的にならざるをえないが、その客観性は、チームの主観性ではないかということは論理的には考えられる。そこで、プレゼンス性を強化するためには、他のチームの審査委員や部門長・ユニット長会議、そして、特別なタスクフォースと呼ぶ、細分化された専門的・プロ的な見識で、主観的であるか客観的であるかを再々度確認している。このようなプロセスを経て、客観的な「認証」としてのGマーク選定をグッドデザイン賞への判定としているのである。
あくまでも、Gマークは、デザイン・コンペティションでの優秀作品を選別しているわけではない。また、グッドデザイン賞を受賞するものが、応募のほぼ4割に至るということに対する批判がある。しかし、この制度が選別されて認証された褒賞制度になっているということが、いまだ広報や訴求不足であることは認めざるをえない。

アワード=賞であるか、セレクション=選定であるか
Gマークが国の「制度」であったことから、「民営化」された歴史的な文脈の中でも、グッドデザイン賞という認証については、以下のような歴史的な認識を明確に決定づけておかなければならない。
かつては、「グッドデザイン選定商品」という認定として、Gマークという評価が与えられた。しかし、選定商品であるということよりも、選定された場合には、選定された側は決まって、「グッドデザイン賞受賞」という「言い方=パロール」をする傾向が強かった。
そこで、民営化とともにGマークの認証は、グッドデザイン賞=アワードであると改称したにすぎない。よって、アワードが大量にあるということには批判、非難、あげくにはGマーク廃止論までが飛び出した。この廃止論の主張は、貿易立国であることのアイデンティティを放棄していることに気付いていないデザイン振興政策への思考、その軽薄さがあると思う。
結局は、Gマークという選定評価は、グッドデザイン賞受賞という褒賞ではあるが、セレクションであり、このセレクションに至らないことは、デザイン的な問題があるということを明示している。セレクションとしてのグッドデザインというのは、デザインとしての価値観、つまり、デザイン的な「望ましさ」と「好ましさ」を満たしているという認定であり、その認証によって、より「社会的なデザイン振興」を図る、「制度」=「裁可」=サンクション(社会的な諒解)である。
したがって、応募者にとって、すでに本来のアワード受賞というのは、金賞やその他特別賞であることを熟知しているところも多くなってきた。セレクションとしての裁可にすぎないということは、応募に対して、どれだけその裁可判定が行われたかを、当初より意識している応募が増えてきたと見ることができる。
あくまでも、デザイン対象は拡大しているわけである。その「結果」としての「裁可」という受賞がGマークの認証になっていることを、再度、確認しておきたい。よって、応募できうるモノは、受賞という褒賞と選定という裁可をデザイン価値とすることができるわけだ。このデザイン価値を企業戦略、あるいは行政戦略、社会戦略にできないことに、今後のGマークによるデザイン振興の制度としての問題が残存していると判断している。

審査概評としての問題提起
冒頭にて、特にインダストリアルデザイン、つまり商品デザイン部門全体では、いまだに「常套的なデザイン手法」に寄りかかっているメーカーが多いという印象はまぬがれなかった。その元凶は、未だに、「デザインは付加価値である」という認識と、市場セグメンテーションというマーケッティングによるデザインが温存しているからである。
高密度な電子技術が凝縮され実装された製品には、先端技術や日本独自のいわば努力成果が込められている。しかし、市場価格が同額であるブランド品は、経済的にも成功し、かつ流行している。これは文化価値と呼んでもいいのかもしれないが、市場での価値観がこれらに劣ってしまっているという現実があるわけだ。160万円の自動車と高級ブランドの機械式腕時計が同額であること。コンパクトに凝縮実装された電子機器と同額のブランド品の鞄、いずれにもデザイン戦略は施されている。
わかりやすく表現すれば、中身がぎっしりと頭脳集約された産業成果と、単なる伝統的な技能成果でしかない鞄や宝飾腕時計のデザイン価値が対峙している。しかも、この経済的、文化的デザイン価値は、ブランドの認知性だけでしかないという現実である。
また、IT産業の低落をなぜデザインでくい止めることができないのか、こうした先端産業はもとより、伝統産業までも含めた経済的な不況業種をどうしてデザイン戦略で再生、もしくは創生できないのか。
私は、すでに可処分所得での購買者や消費者への訴求は、「付加価値としてのデザイン」により「差別化」するというデザイン戦略が大きく間違っていると指摘しておきたい。
消費者を区分してそのまま商品を差別化するというのは、消費者そのものを差別することであるという良識のないデザイン戦略でしかないということだ。これを買うあなたは、こういう階級、階層の人間であるということをメーカーが押しつけているのである。そのことをユーザーたちは気付き始めている。
オープンプライスという風潮的な市価設定すら、ものづくり、そしてデザインが全体価値であることを自らが否定している。自らを否定しているものづくりに、ビジネス的な投資効果はあるはずがない。現代の産業的な大きな誤り、不況の元凶が、そうした誤ったデザイン戦略にもあるということである。
デザインを「付加価値」という時代は終焉している。デザインは「全体価値」であり、商品の差別化としてデザインが運用される手法であってはならない。
これまでのような物欲を刺激する装置としてのデザインは、デザインの本質である理想、価値、望ましさ、好ましさからは完全に遊離してしまっていると断言できる。

コミュニケーション部門が意図する認証性
その「全体価値」であるというデザインの本質は、コミュニケーション部門の審査に表れている。ここでは顕著に審査基準が包含され、評価されることになる。それは、たとえ商品であっても、その商品はメディアであり、商品と消費者のコミュニケーション、つまり、インタラクション性が求められているということである。
すなわち、企業戦略、あるいは社会基盤の整備、建築や環境においても、コミュニケーションというコンセプトは、そのままデザインのキーワードであり、テーマとオブジェクトになるのである。
昨年は、メディアデザイン賞を設けて、テレビ番組を選んだ。私は、すでにTV番組に止まらず、映画もすでにデザインの対象になっていると判断している。つまり、デザイン対象となって、デザインされた物事には、必ず、社会的な意味でのコミュニケーションとしての完成度や簡潔度をはじめ、成就される構想と意匠性が必要だと考えるからである。コミュニケーションとは、「共有して分配できる望ましさと好ましさ」を意味している。
本来、グラフィックデザインが対象としていた視覚伝達や情報認識は、決して、デザインが付加されたことによって、コミュニケーションという効能が生まれるわけではない。
かつて、コーポレート・アイデンティティとして、単なる「意匠」、いや、むしろ「装飾」にだけ偏ったマークやそのアプリケーションによる企業のビジュアル・アイデンティフィケーションは、金融関連企業の間ではある時期過激なほどのブームであった。しかしすでに、金融企業の社会的な存在価値すら今では不信感を招いている。単なるビジュアル・アイデンティフィケーションは、企業戦略にはなりえなかったのである。
デザイン価値とは、あくまでも企業の活動すべての倫理性、存在性、貢献性が基盤であり、そのアイデンティティへの信頼によって企業利益が得られることを証明している。
コミュニケーション部門がGマークの対象となっていることは、「何がコミュニケーションとしてグッドデザインであるか」という認証評価を、時代的、社会的に象徴していると考えていただきたい。

新領域部門が拓く新しいデザイン
デザインの源であるアイデアは、その源泉と展開には様々な学際性や領域のクロスオーバーが必然である。この結果、領域が未分明になってしまう場合が多い。しかし、こうしたボーダーレスな構想が構築されていくには、デザインの導入される可能性はきわめて高く、必務のことであると解釈することができる。
現在、企業での開発商品や大学あるいは研究所、さらには行政からNPOなどでの、構想と構築をめざした活動は、すべからくデザイン活動と考えることが可能である。また、こうした源泉に潜んでいる知的な発想は、デザインによって美学性や倫理性が具現化されることで、社会的な効能と効果を及ぼす。
すでに、工業社会から情報社会となっている現状では、ネットワークや社会システムの提案までがデザインされることは当然である。むしろ、商品の生産と消費という構造が、素材採集・生産・告知・訴求・消費・廃棄・循環という円環的なサイクルに乗らなければならない。単一の地場産業から、産官学というコラボレーション、ネットワーク化されたコントラクトまでが、デザインされなければならない。そのためのモデルケースは、ビジネスプランやビジネスモデル、あるいはソーシャルデザインとして社会化される必要があるわけだ。
そのために、制度として認証されたグッドデザインという提示が、今後のデザイン対象をさらに拡大すると考えられる。しかも、これはデザイン領域やデザイン対象の拡大と同時に、デザインそのもののデザインを再検証することにもなる。
今、企業デザインに限度や限界があるとするならば、学際的、異業種とのコラボレーションによる、新たなPPD(プロダクト・プロセス・ディベロップメント)とEM(エンタープライズ・マネジメント)によるブランド開発を求めるべきではないかと考える。
それぞれの企業や行政、地域、地場という枠組みは、一端は解体、解散、そして解放されるべきかもしれない。その上で、新しいドメインの設定そのものが求められているということである。
今年度は、危機管理やセーフティネットワークまでが応募されてきた。おそらく、この領域は時代が要請している、「何がグッドデザインであるか」ということを認証しているものとして提示したい。

建築と環境のデザイン振興
この部門は、かつては施設部門と呼んでいたが、建築と環境も分別して審査を行うようになった。10年程前までは、Gマーク授与対象はあくまでも商品であり、商品性のある建築、つまり住宅メーカーの製品だけが対象となっていた。このことを再考する意味からも、施設部門が設置されたわけだ。が、行政や団体、企業の施設や、環境(この環境という名称自体を建築と同類的にしているのは、さらに時代的に錬磨されて検証されるべきだが)は、現段階に至るもまだ論理的な定義への整理が及んでいない。
このこと自体が、環境デザインと建築デザインにも、情報社会での空間デザインのあり方として革新性を求めているということである。
一戸建ての住宅が、一世帯というユーザーにとってグッドデザインであるということが建築には求められている。普遍的に、住宅のパターンデザインを量産住宅に求めてGマークとする時代は終わっていると判断している。
「私の実家はGマークの住宅だった」という会話すら期待しているわけだ。Gマークの住宅がどれほど都道府県ごとにあるか、ということが地域の「住みやすさ」の一つの大きな基準となることを振興することこそ、建築デザインへの認証である。
また、貿易立国として、住宅産業に期待するのは、輸出できうる住宅産業への進歩である。そのためには、住設機器化された住宅ではなく「住居というハードウェアとソフトウェアの統合的開発」が求められるのではないだろうか。
行政のいわゆる箱モノをグッドデザインとする場合も、その建造物というハードウェアの設計を評価するだけではなく、使い勝手やその地域での存在価値、ソフトウェアも含んだデザインまでを評価している。もちろん、その施設や環境が構築されるまでのプロセスまでもが評価されているという審査基準があることを明言しておかなければならない。
こうした意味では、グッドデザインとなる環境デザインそのもののあり方から、その手法や経緯に至るまでが問い直され、「何が」環境デザインであり、建築デザインはすでに、環境や景観、住居のあり方をもう一度問い直しているという「制度」であり、それによって「認証」されるべき豊かな生活の場という理想の具体化を振興することができるはずである。

提言として―これからのGマーク
民営化された「制度」としての「認証」、その「褒賞」としてのGマークは、やがて、半世紀の歴史を迎えることになる。これは、デザインという職能、あるいはデザインという理念、思想の伝統性が確立していくと期待している。
私は、審査委員長として、「制度」で「褒賞」し「認証」する効果について、今年度の結論を呈示しなければならない。
一言で表せば、デザインが実現していくことの最終的な役割を、「制度としての認証」と「認証としての制度」として、双方向から今年度のグッドデザイン賞受賞対象と、それらの象徴としての金賞・特別賞とを考察した。特に後者については、私は「エクセレントデザイン賞」と区分している。
「制度としての認証」に値する商品、応募物件は、まだまだ少ないと感じた。この領域に入るものは、人命や安全と安心に関わる社会システムにつながるグッドデザインが求められているということだ。
また、「認証としての制度」が対象とする物件は、未来を拓くデザインであってほしい。それは、認証されることで、社会システムを創出していく社会的な動機づけや、社会投資の対象になってほしいからである。
私は、この2つの双方向性に応えられるデザイン、それはデザインのためのデザインが研究されるべきだ。今世紀の革新的なデザイン手法やデザイン成果の開発が求められているということを実感する。
Gマークは、あくまでも、まだまだ「デザイン振興の政策」のモデルである。しかし、デザインという言葉がほぼ日常語となってしまった今日、それでもなお、グッドデザインとは何か、という問いかけを求めるのではなくて、「何がグッドデザインであるのか」という「褒賞された受賞対象」に、これからのデザインのあるべき方向性を見い出していただきたいと願っている。
決して、主観的な美学性で「良いデザイン」が選ばれているわけではない。
「良いデザイン」になるためには、「認証されているデザインの良さ」が社会的な存在価値を持っているということに他ならない。
「良いデザイン」とは、当然ながら「かたち」の美しさがあり、その「かたち」には、「きもち良さ」があり、「いのち」への敬愛が宿っていることを共有できる社会的な存在価値である。とりもなおさず、存在価値の良さは、「認証」され「褒賞」されるべきことである。
この「認証」が「褒賞」される「制度」そのものが、解消されていくまで、デザイン振興政策は、たとえ民営化されたといえども「制度」として存続させるべきだろう。Gマークは、きわめてシンボルとして、わが国のアイデンティティを保証していると確信している。