2007年度受賞結果の概要

2007年度審査委員/審査講評

2007年度グッドデザイン賞審査総評

「消費と幻想」

グッドデザイン賞審査委員長

内藤 廣

建築家


デザインとは何か,それも現代におけるデザインの意味とは何か,それがここで書こうとしていることだ。仰々しい書き出しで,やや引き気味になった読者の方もおられるかもしれない。しかし,いざ委員長になって状況を俯瞰すると,この辺りを立て直しておかないと,デザインに未来はない,とすら思える状況が多々あり,このことは看過できないというところにまで来ている,と感じた。丁寧に煮詰めていく必要があるから少し時間がかかるかもしれないが,これをデザインの現場に即した形で議論できるのは,グッドデザイン賞選定というこの場しかないはずだ。
こう考えるに至った大きな理由は,領域の拡大により従来の意味でのデザインという言葉の賞味期限が来つつあること,審査のアカウンタビリティが求められつつあること,などが挙げられる。なんといっても,順調に成長し推移しつつある賞であり,制度に手を加えることは慎重を要する。
本年度は,審査委員長に着任したばかりであり,いきなりデザインの本論に切り込んで,そこから現在のグッドデザイン選定制度を早計に変えるという動きはしなかった。なにより,審査領域や審査方法を大幅に見直すには準備期間が足りなかった。本年度は,運用で対応する,足下を固め改革の第一歩とすることを旨とした。デザインの善し悪しを,どこかに線を引いて当落を決めるのは難しい作業だ。いうまでもなくデザインというのは定性的な価値であり,もともと優劣を判定する基準は人によって違う。完全無欠な人間などいない。人間とはそういうものだ。その不完全な人間が他人のしたことを評価するのだから,判定の結果が絶対に正しいとは言い切れない。これが定性的な物事の評価の難しいところだ。しかし,もちろんそれは分かった上で,審査の過程で,できるだけ議論をしてもらい,可能な限りその内容を言語化し,説明していくことを審査委員諸氏にお願いした。各ユニットでは例年以上に可否の議論が交わされたはずだ。また,審査後日,ユニットごとの講評会を催してもらった。
グッドデザイン賞の最大の力は,審査委員の質にあると思っている。各分野を代表する優れたデザイナーや識者が顔を並べるのだから,応募段階から大賞決定までのプロセスで,できる限り審査委員が前面に出るようにした。このあたりは,来年度はより積極的に取り組んでいこうと思う。どのような審査委員が,どのような選定をしたのか,そこにその人なりの考え方が反映してもよいし,その結果多少の偏りがあってもよい。完全に客観的な判断などあり得ない,これが定性的なものの選定の宿命だ。要は,それを説明する努力をしたかどうかが大切なのだと考えている。

消費と幻想

委員長の立場で個別の審査には立ち入っていないから,やや俯瞰的な視点から本年度の応募作品の傾向と特徴を述べてみたい。グッドデザイン賞は3000点近くの応募があり,文字通り年に一度のわが国最大のデザインの祭典だ。それをさばくために18カテゴリーに分けているのだが,わたしはこれを異種格闘技と呼んでいる。ありとあらゆる分野から応募があり,目的も用途も違うものを一線に並べてそれを評価するからだ。楽しさも難しさも,可能性も不可能性も,この辺りにある。しかし,この景色をボーッと眺めると,その時代の大きな流れが見えてくるから不思議だ。この視点から本年度の様相を見てみたい。
本年度の大づかみな印象をいうとすれば,[イノベーション,コンパクト,エコロジー]のデザイン化ということになるのではないかと思う。こう並べると,やはり月並みな言葉しか思い浮かばないのが残念な気もする。はっきりと頭の中で像が結ばない。なにか中途半端で,どこか焦点がボケている。今は企業にとって,はっきりとしたビジョンを描きにくい状況があるのかもしれない。次なるパラダイムへと移行するための「踊り場」のようなところにいるのだろうか。
なんにせよ,とりあえずマーケットが好調なのだろう。こういう時は,危機感も薄れ,新しい試みをあえてしようとはしない。都市再生によって,都心部にこれだけマンションやオフィスが立ち上がれば,建設関係が潤うのは当たり前としても,その中を埋めていく膨大な数の家具や家電の需要が発生する。だから,差し迫った危機感などないのだ。とりあえず競合他社との競争に勝てばよいのだから,勢い,多少のリスクを負っても新たなマーケットを切り開いていく,という意欲が欠けてくるのはやむを得ないことかもしれない。
しかし一方で,先行きに不安がないわけではないはずだ。いずれ近い将来,この勢いは止まるだろうし,韓国勢や中国勢の追い上げも気になる。また,生産の海外流出,素材の海外依存,経験が必要とされる高度技術者の高齢化など,不安な要素も見え始めている。バブル崩壊以降,暗いトンネルを抜けた開放感がある一方,あきらかに空洞化した物造りの現場を,どのように立て直し,新しいマーケットを生み出していくのか,という苦しみもある。ものの姿形は正直だ。そこはかとない不安と自信のなさが漂い,繊細さやナイーブさが表現のアイデンティティを支えている。
目を転じて,社会全体はどうかというと,温暖化が叫ばれ,気象変動が身近なものになり,確実に世の中の思考形態が変わりつつある。いまや,環境を無視して物事を語ることはできない。日々の生活は豊かにしていきたいという願望はあるものの,このまま行ったらどうなるのだろう,ひょっとしたら元も子も失ってしまうかもしれない,という不確さを感じ取っているのではないか。
しかし,環境を旗印にすると雰囲気が暗くなる。気象変動は一国の問題ではないし,明日にでも解決するものでもない。決定的な解決策があるわけではない。また,突き詰めれば,人間という存在そのものが悪なのだ,というところに行き着いてしまう。この暗さを忘れさせてくれるものを人々は無意識のうちに求め始めているのではないか。逃避と幻影という価値が消費の中に投げ込まれつつある。けっして好ましいことではない。なぜなら,デザインが問題の所在を分かりにくいものにすることに手を貸しているからだ。
この微妙に不安定な消費者の気分と,デザインの繊細さやナイーブさが共振しているように見える。出所も動機も違うものがたまたまマーケットという囲いの中で結び付いているのではないか。
これが本年度の応募全体を俯瞰した雰囲気から受けた印象だ。

韓流の台頭

今年度の特徴をもうひとつ挙げるとすれば,韓国デザインの躍進ということができるだろう。審査の過程でも,何人かの審査員から韓国勢の健闘にいささか戸惑うような言葉を聞いた。
一朝一夕の盛り上がりで今の成果があるのではない。1998年の金大中大統領のデザイン立国宣言以来,デザイン振興院を中心に,国を挙げてデザインの育成に取り組んだ成果が今日の隆盛を生んでいる。企業のトップにデザインの重要さを説き,企業戦略のコアにデザインを据えさせた。さらには中小企業をデザインで育成し,デザイナー育成にも取り組んだ。国策として取り組んだ成果なのだ。韓国流のトップダウンの施策の成果といえば簡単だが,ここまで来るには産官一体になった必死の努力があったはずだ。
審査を通じて感じたことは,韓国デザインの若々しさだ。企業戦略のコアを担っているという自信,チャレンジャーとして意欲,マーケットニーズにいち早く対応する俊敏さ,そうしたものが感じられた。こうしたみずみずしさが,わが国のデザインから失われて久しい。
それに対してわが国のデザインは,企業戦略の末端にあり,おしなべて開発技術の下位に位置し,大勢においてマーケットに対して臆病であるという印象を持った。要するに,自信なさげに見える。韓国デザインの若々しさ,ヨーロッパデザインの超え難い成熟,その狭間に挟まれて悩んでいる,その構図が韓国デザインの出現により明確になってきているのではないか。
今ひとつ生彩がない理由はいくらでも挙げられるだろう。マーケットの複雑さ,技術進化と製品開発の早さ,同種企業のコンペティティブな状況などなど。しかし,デザインは常にそのベクトルを未来に向けているとすれば,こんな御託を並べていては希望はない。隣国に対するライバル意識などこの際捨てたほうがよい。謙虚に良いところを認め,学ぶべきところは学び,自らの足らざるところに目を向けるべきだろう。現在の韓国デザインについて注目し,その良さを真摯に受け止めることは,わが国のデザイン界にとって極めて有意義なことだと考えている。
わたしなりの捉え方を述べておきたい。ヨーロッパやアメリカはピラミッド型の社会だ。あらゆるデザインは,このピラミッドの頂点,すなわち社会的なエリート支配層に向けて発せられる。その階層の承認と支持なくしてデザインは市民権を得られない。つまり,デザインの向かうベクトルは常に「上目遣い」なのだ。ゼセッション,アールヌーボー,モダニズム,アールデコ,発生当初の意図は別のところにあったとしても,結局それらはその時代の政治勢力や新興階層の存在を証明する道具となった。ポストモダニズムですらそれを免れなかった。トップダウンで展開される韓国デザインも,少なからずこの流れを追うものではないか,と考えている。
これに対してわが国のデザインは,目線のベクトルがそもそもまったく違うのではないか,そしてこの目線の在り方こそがわが国のデザインの特性なのではないか,と考えている。江戸時代を見れば明らかなように,歴史において文化の発信源は庶民や大衆が中心であった。庶民文化や大衆文化が,常にプロダクトの大きなパトロンであり,物造りの目線は常に水平方向,すなわち庶民や大衆という茫洋としたマッスに向けて放たれていたのではないか。けっして上目遣いのデザインではない。その中で生み出されたのが,カローラでありウォークマンであり無印良品であったのだ。このことを,思い出しておく必要がある。わが国にはわが国なりのデザインの歴史があり,その結果生まれた現況がある。上目遣いの目線まで習う必要はない。しかし,韓流の良いところを水平の目線で生かせないか,それが最大のテーマではないか。
あらゆるデザインは,生み出される生活文化を土台としている。冷静に見れば,極めて現代的なデザインであっても,少なからず室町や江戸の文化の土壌の上に生み出されたものであることは否定できまい。なんの根拠もないのだが,精度,密度,質,触感,そうしたものを見ているとそう感ずるのである。おそらくこの傾向は,生み出すデザイナーの側にあるというより,それを受け入れる消費者の側に,脈々と生き続けている生活の好みや生活信条によるのではないかと思われる。
要は,われわれの生活文化をより豊かなものにする,ということを見直すべきだ。もともとグッドデザイン運動が出発点としたこの当たり前で誠実な努力の延長にしか,明日のデザインは描き得ない。外からの刺激を受け止め,しっかりと足下を見直し,その上でどのような位置取りをするのか,骨太の世界戦略を立て直す時期に来ているのではないかと思う。

デザインとは何か

一般に,工学(テクノロジー)は社会技術であり,人間社会に向けて開かれている。物理や数学などの純粋科学ならいざ知らず,人間の関与しないテクノロジーというのは存在し得ない。どのようなテクノロジーでも,それを生み出すのは人間であり,それを享受するのも人間である。だとすれば,人間に対する認識や洞察を欠いては,テクノロジーは成立しないということになる。ここにデザインという言葉の起点がある。なぜなら,デザインこそは人間の感性を相手にするからだ。
グッドデザイン賞は,デザインという価値の大きな土台を蓋然の事実とし,その上で何がグッドかを競い合う場だ。したがって,これまでデザインというこの蓋然の事実そのものについてはあまり言及されることはなかった。しかし,審査を通して,また応募者の方々の意見や感想を聞くにつけ,そろそろもう一度デザインという土台について考え直してみる時期に来ていると感じている。デザインという言葉がカバーする範囲があまりにも広がり,いまやこの言葉の意味すら分からなくなりかけているからだ。
冷静に観察すると,この言葉ほど,誰でも知っていて,頻繁に使い,それでいて不確かで,誤解に満ちた言葉はない。グラフィックデザイン,インダストリアルデザイン,システムデザイン,インテリアデザイン,建築デザイン,都市デザイン,ランドスケープデザインなど,ありとあらゆるところにこの言葉が貼り付けられている。デザインという言葉さえ冠しておけば,そこに何か特別な質が付け加えられている,という思い込みがある。このあたりは,我が国独特の言葉に対する楽天的でいい加減な気分が伝わってくる。しかし,それを繰り返しているうちに,言葉自体が消費され,新鮮さを失い,手垢にまみれて疲れきっていることを思い出しておく必要がある。
グッドデザイン賞の審査にかかわって,その時代を俯瞰せざるを得ないような立場になり,あらためてこの言葉を再点検しておく必要性を感じている。
デザインという言葉の意味は「技術と人を結び付けるもの」と自分では定義している。技術というのは不可逆的に進化していく。社会からの要請を受けながらも,後戻りし,退化することは決してない。また,技術はもともと自立した存在だ。人の側からすれば,血の通わない冷たい手触りのするものだ。
それに対して,人の心は気まぐれでとらえどころがない。個人の好みも違う。気分によって好き嫌いも逆転する。冷たい技術をホットにし,この不確かな人の心理と結び付ける,技術と人との関係をより高い次元からスーパーバイズするのがデザインという言葉の所在地だと思いたい。

Gマークのミッション

歴史あるグッドデザイン賞は,昨年度50周年を迎え,今年は次の50年に向けて新たにスタートを切った。50年と言えば,それもひとつの歴史といえる。振り返ってみれば,もともとは戦後の荒廃した風景から,いかにして経済復興を遂げていくか,それをどう支えるかが大きなテーマだったことは容易に想像できる。デザイン界も,戦争が終わって明るく新しい社会の到来を予感し,それに向けての動きが世界的に胎動し始めていた。1950年にニューヨークではグッドデザイン展が行われ,カウフマンJrが「近代デザインとは何か」を著した。わが国でも,グッドデザインを生み出そうとする動きは,生まれるべくして生まれたといえる。
はじめは身近な家電製品,そして自動車,さらには住宅,経済の発展に伴って,時代の要請は移り変ってきた。それとともに,グッドデザイン賞の質も内容も変化してきた。近年では,建築や都市から新領域と言われる分野まで,応募分野も広がった。それに伴って,賞の認知度も上がり,応募点数も格段に増えた。審査のユニットは18もあり,各界で活躍する審査委員は70名もいる。いわゆるグッドデザインは,この賞によって普及し,拡大し,現在に至っているといっても過言ではない。
当然のことながらこの広がりは好ましいものであり,この制度そのものがそれなりの成果を上げてきたことの証左でもある。しかし一方で,この広がり続ける領域をどのようにデザインという言葉で括っていけるのか,という本質的な問題も浮上しつつある。つまり,デザインとはどのような行為のことを指すのか。デザインとは何か。さらに,グッドデザインのグッドとは何か,これに答えていく必要がある。
もちろん,デザインという価値は,もともと不確かなものであり,世の中の変化につれて変わってゆくもので,これを杓子定規な枠に嵌めるのは,かえってこの分野を堅苦しいものにする。だから,絶対普遍の尺度を設けることには違和感を覚える。それでもやはり,時代ごとにその意味を真剣に問いかけ,より高いものへと導いていく努力は必要だろう。なぜなら,そのことによってのみ,デザインにかかわる無数の人達が自分と社会との関係を定位できるのであり,さらには,わが国で生み出されるデザインの高さが,国際競争力を持ちうるからである。審査プロセスを通して「現時点におけるデザインとは何かを問うこと」,このことはこの制度に向けられた避けて通れないミッションであり,次年度に向けてさらに真剣に取り組んでいくべき課題なのではないかと考えている。